周辺地域情報
川崎宿解説【まち歩き用シート】
当館2階の展示施設「川崎宿解説」の展示データをベースにして、「まち歩き用シート」を作成しました。
川崎宿の江戸時代の絵図と現代の航空写真を並べて表示し、史跡等の見どころ情報とその場所を記載しました。
印刷した「まち歩き用シート」(A3版両面印刷)を当館で配布しておりますので、ご利用ください。
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「開運爆アゲ 川崎っ子が選んだ街あるきマップ」
東海道と大師道の街あるきマップを地元の方々が作成しました。
地図だけでなく、それぞれの沿道のパワースポットやグルメ情報などが満載です。
所要時間別のモデルコースも載っておりますので是非ご利用ください。
(2022年3月更新)
なお、印刷されたマップは当館やかわさききたテラス、区内の一部店舗などでも配布しております。
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東海道川崎宿史跡めぐり
東海道かわさき宿交流館は、旧東海道川崎宿の田中本陣跡と問屋場跡の中間に立地しています。
東海道川崎宿は、現在の川崎の街の原点となる重要な歴史的資源ですが、戦災により多くの資料を焼失し、江戸時代の宿場の面影は、
そのほとんどが失われてしまいました。しかしながら、川崎宿のあった時代から続くいくつかの社寺が今もあり、今は姿を消した施設や事物等があった場所には、歴史ガイド等の案内標識や当時を伝える碑等が設置されています。
「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」元禄7年(1694)5月、故郷伊賀に向かった芭蕉が、見送りにきた門人たちと川崎宿のはずれで別れを惜しんで詠んだ句が刻まれています。関東での芭蕉最後の句で、作吟地に立てられた碑として大変貴重なものです。 |
浄土宗の寺。境内には江戸時代に鋳造され、市内に今でも残る三つの梵鐘の内の一つがあります。また江戸中期に庶民から生き仏様と敬われた徳本上人の六字名号碑もあります。山門前左側の石灯籠は富士講の信者が建てたもので、もとは京口棒鼻にありました。 |
東海道が新川堀という排水路を横断するところにかかっていた橋で、昭和6~8年(1931~1933)に堀と橋は埋め立てられました。現在は、橋の欄干の親柱だけが交差点脇の歩道に保存されています。 |
別名、惣左衛門本陣。幕末に14代将軍家茂が京に上る際に宿泊しました。明治23年(1890)にこの家に生まれた詩人佐藤惣之助は、大正から戦前に活躍。「六甲おろし」「青い背広で」 「人生劇場」など、今でも親しまれている歌の作詞をしました。 |
日蓮宗の寺。境内に二ヶ領(稲毛・川崎)用水を完成させた小泉次大夫と川崎中興の祖といわれた田中休愚の功績を讃える「泉田二君功徳碑」・日純上人の供養塔・小泉次大夫夫妻の逆修塔・次大夫の協力者石川吉久夫妻の墓があります。 |
平安時代河崎庄の鎮守。河崎山王社,または堀之内山王権現と呼ばれていました。幕末に鎮座地の地名をとって稲毛神社となりました。境内には歴史的記念物が多くあり、宮座式などの伝統神事が引き継がれています。 |
曹洞宗の寺で鎌倉時代創建。勝福寺が前身と言われています。境内には遊女の供養塔と墓石の頭部中央に「烏八臼」という、いまだ意味が解明されていない文字が刻まれた、墓石があります。 |
浄土宗の寺。別名「閻魔寺」と言われ、閻魔大王像と地獄極楽絵図が年2回の薮入りの日に公開されます。境内には川崎宿で最初の寺子屋を開いた浅井忠良の墓と、タテカワ講(富士講)の大先達西川満翁の墓があります。 |
真言宗の寺。本尊の薬師如来は、古くから眼の病気など多くの病気に効能があると信じられています。境内にある庚申塔は、寛文5年(1665)の銘があり、市内最古級、最大の物です。庚申塔の前にある石製香炉は全国的にも古いものと言われています。 |
享保元年(1716)紀州藩主吉宗が八代将軍になるために江戸へ向う途中、境内で休息したと言われています。昭和26年頃再建の社殿の下にいわれのあるケヤキの大木の根株が眠っていて、基礎の土留にはニケ領用水に架かっていた石橋の部材が使われています。 |
川崎で一番大きな茶屋。「万年」の名物だった奈良茶飯は、「東海道中膝栗毛」の物語中で、弥次さん喜多さんも食べたほど有名でした。やがて宿泊もまかなうようになった万年屋には、幕末には大名や駐日総領事のハリスなども宿泊しました。 |
慶長5年(1600)に架けられた六郷大橋が貞亨5年(1688)の大洪水で流されて以来、明治7年(1874)まで渡し舟で多摩川を渡っていました。明治天皇が初めて江戸に入る際は、舟の上に板を並べた臨時の舟橋の上を、鳳輦に乗った天皇の行列が渡りました。 |
川崎区役所ホームページの「東海道川崎宿」の情報【リンク】
東海道53次とは
江戸幕府は、戦国時代の諸大名がその領国内に設けた伝馬(てんま)制度を継承しつつ、江戸を中心とする一円的な交通網の整備を進め宿駅伝馬制度(街道沿いに宿場を設け、公用の旅人や物資の輸送は無料で次の宿駅まで送り継ぐという制度)を制定しました。その中心をなすのが五街道であり、特に江戸と上方(大坂)を結ぶ東海道は重要な幹線道路でした。
「五十三次」とは、東海道に設置された53箇所の宿駅のことです。
慶長6(1601)年、幕府は東海道の駅制を定め、戦国期の宿駅を母体としつつ、改めて諸駅を設定しました。
53次の大多数はこのときに設置されたものと考えられます。
その後、慶長7(1602)年に大津宿、同9(1604)年に戸塚宿、そして元和9(1623)年には川崎宿が追加されました。
参考文献:川崎市編集「川崎市史(通史編2近世)」平成6年(1994年)
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川崎宿とは
川崎宿は元和9(1623)年、品川・神奈川両宿の伝馬負担を軽減するために開設されました。
新宿(しんしゅく)・砂子(いさご)の2町から始まり、その後、久根崎(くねざき)・小土呂(ことろ)町を加えた4つの村で構成されていました。
参考文献:川崎市編集「川崎市史(通史編2近世)」平成6年(1994年)
>>詳しくはこちら(外部リンク)
川崎宿めぐり
・東海道川崎宿めぐりリーフレット(外部リンク)
川崎宿のなりたちや川崎宿のまち歩きマップを記載している東海道川崎宿めぐりリーフレットは、A4版2頁で印刷できます。
・東海道川崎宿一覧(外部リンク)
東海道川崎宿めぐりリーフレットのまち歩きマップに記載している見どころの解説情報です。
東海道川崎宿2023
東海道の宿場の大部分は、慶長6(1601)年に制定されましたが、川崎宿は元和9(1623)年に制定されました。したがって、2023年は宿制定400年の記念の年となります。
地域の方々は、「東海道川崎宿を活かした地域活性化推進組織」(通称:「東海道川崎宿2023」)を結成し、東海道川崎宿の歴史や文化を活かしたまちづくりに取り組んでおり、具体的な取組案をまとめた市民提案書を、「東海道川崎宿2023いきいき作戦」(平成14年度版、22年度版)として作成するとともに、毎年、具体的な活動を展開し、地域の活性化に取り組んでいます。
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すごろく
「東海道川崎宿すごろく」は、六郷の渡しをスタートとする川崎宿の見どころを紹介する双六で、市民の参加を得て作成されています。
双六の画像は、ダウンロードし印刷することができます。
・大師すごろく(外部リンク)
・東海道川崎宿すごろく(外部リンク)
・田島すごろく(外部リンク)
川崎宿周辺のアクセス
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周辺施設のリンク集(外部リンク)